2.幕末維新豆知識

小栗忠順(おぐり ただまさ)をご存知でしょうか。
この方、幕末の幕臣の中で抜群に先見性があり、優秀だったと名高いお方です。

なるほど聡明そうなお顔です。(多分これは気のせいですが)
幕末の幕府の財政は知っての通り窮乏していましたが、1865年当時の勘定奉行が小栗さんでした。

小栗さんの発想は、その後の明治政府で掲げられた「富国強兵」そのものでした。
外国の技術を積極的に取り入れ、産業と軍備の改革を行うというのがその趣旨ですが、この一環として江戸の近くに西洋式艦船を造る為の造船所を作るべし、と言って周囲の反対を押し切るんですね。
幕府の財政が苦しかったものですがら、当然反対する人が多い訳です。
この時の彼の名言というのが「造船所を作らなければ、その金は無駄に使われるのであるから、造船所を作れば金の無駄使いが抑えられる。仮に幕府が政権を返上したとしても、立派な蔵を作ったという名誉が残る。」といった内容だそうです。
なかなか面白いというか、おそらく現代であればカリスマ経営者になっていたような人だと思います。

さて、当時の幕府はフランスと親密な関係にありましたので、フランスの助言を聞き入れて建設地は横須賀になりました。
残念ながら、造船所の完成を見ずして江戸城の引き渡し後に、間もなく小栗さんは新政府軍に捕縛され斬首されてしまうんですけどね。
特に罪状が云々という訳ではなかったようなのですが、強硬な佐幕派でしたからね。
惜しい人を亡くしたもんです。

ちなみに、この人が考えていたのは藩を廃して郡県制とし、幕府の完全な中央集権体制に持って行くという事だそうです。
個人的にはここが本質を突いていて一番凄いかなと思います。
明治政府がやった廃藩置県そのものですからね。

それと、これは物凄く見解が分かれるところでしょうけど、最速で「富国強兵」を推し進める為には強力な専制に近い統治システムが必要ですし、明治政府は大久保派が諸侯や他の派閥の人達を追い払って自分達のやりたいようにやった訳ですからね。
小栗さんは高禄の旗本として生まれて来た為に、こういう選択しかなかったんだろうと思います。

横須賀造船所は新政府に引き継がれ、1871年(明治4年)に完成しました。
横須賀造船所

これで蒸気船などの洋式艦船の製造が可能になり、「富国強兵」策を加速させる事になるんですね。

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修羅を生き、非命に死す 小説 小栗上野介忠順 (集英社文庫)

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下関戦争の時にイギリス・フランス・オランダ・アメリカは戦利品として長州藩の大砲を全て持ち帰ってしまったんですよね。
各地でそうやって色々な物を分捕り、自国の博物館に展示したりしていらっしゃいますね。

まぁ、それは置いておくとして、何年か前にフランスに向かう飛行機の中で読んだ雑誌に長州砲が保管されている博物館を紹介している記事がありました。
残念ながらどこの博物館だったか忘れてしまったのですが、その後長州砲の1門が、フランスのアンバリット軍事博物館から返還されていて、現在下関市立長府博物館にて展示されているんですね。

長州砲の返還についてはこういう本も出ています。

わが長州砲流離譚

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最近図書館で見かけたので今度借りてみようと思っています。

まだまだ日本人が知らない場所に保管されている物もあるかもしれませんね。
海外に行った時に出会えるかも知れませんので、少し気に留めておきましょう。

観光スポット
◆下関市立長府博物館

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13代将軍の徳川家定は、一般的には病弱で愚鈍、将軍として必要な判断力に欠けていたとされていますね。
2008年放映の大河ドラマ「篤姫」では、家定はあえて無能であるように演じていたという設定になっていますが、実際はどうだったんでしょうねぇ。

まぁ、歴史を動かした人ではないですから、あまり研究の対象になっていないのかも知れません。
将軍なのにねぇ・・・でも、どっちでも良いような、良くないような。
だからあんまり研究されていないんでしょうね。

個人的には家定が愚鈍であろうとなかろうと、私の史観は変わらないのですが、愚鈍ではなかった可能性があると言ってる人がいるので紹介しておきます。

井伊直弼 (幕末維新の個性)

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この本なのですが、井伊直弼と家定との関わり合いの中で、家定について書かれた手紙を引き合いに出して筆者が論じています。
あくまでも可能性があると言っているだけですけどね。

直弼が大老に就任した後の事ですが、直弼側近の宇津木六之丞から長野主膳に宛てた手紙の中で、家定は暗君のように言われているが、職掌に怠りはなく、幕府儀礼において役目を十分果たしており、非難するような事は一つもなく、合点がいかない、としながらその後になぜ暗君と言われているかが分かったと宇津木は述べています。

その理由というのは、阿部正弘政権の時代にペリー来航中に12代将軍家慶が死去し、幼君家定が将軍になった為、阿部が将軍に発言されると混乱すると考え、家定への情報をシャットアウトした、という事なんですね。
家定は今起きている諸問題を全く知らされておらず、今日にいたってようやく事の重大さを知った、としています。

また、直弼が大老に就任した時に家定に呼ばれ、直弼がこれからは自分には何でも言って下さいというような事を言ったのですが、それからは家定は色々と自分の意見を述べるようになり、老中達が気が付かないような事も指摘しだしたので、老中達も舌を巻いたとう事だそうです。
直弼は家定を「後賢明にて御仁憐の御方」と評しています。

井伊家は当時将軍継嗣問題で家定の意向を通す(慶喜ではなく慶福を継嗣に)姿勢をとっていましたので、公平な評価ではないかも知れません。
ただ、井伊家の家中での手紙のやりとりで偽装をする必要があるのかな?とも思います。

他の本では、家定が将軍継嗣の問題を聞かれた時に「水戸は嫌い、紀伊は好き」と答えたと記録に残っているとしているんですね。

これはなんだか極端過ぎる気もするのですが、一人の人物の記録だけでも色々な物がありますから、当時の各勢力の置かれた立場なり、周りの状況を把握しないとどっちが信憑性が高いのか判断できませんねぇ。

まぁ、色んな可能性を想像出来るのは楽しいですけどね。

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時代考証の窓から―「篤姫」とその世界

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15年位前に出版された本に、本当だったら面白いエピソードが紹介されています。
ちょっと怪しい内容なんですが、書かれているのはこの本です。
書名「幕末・維新 知れば知る程」、発行元「實業之日本社」、監修者「勝部真長」

どんな内容かと言いますと、この本の冒頭で1858年3月に長崎海軍伝習所にいた勝海舟が、咸臨丸で薩摩に行く訳なんですが、斉彬公と船内で食事をしたんです。
この時に勝が、「これから琉球を見に行くんだ」と言うんですね。

薩摩藩は琉球で、明・清(中国)と200年以上密貿易を行っていたというのは有名なところだと思います。
これを幕府も黙認している訳ですが。
過去に斉彬公は前半主斉興の密貿易の資料を阿部正弘に提出していますしね。

ただ、この本に書かれているのは、斉彬公が西欧諸国とまで密貿易を行おうと計画しており、琉球王名義でフランスから商船や軍艦を買ったり、西欧に留学生を派遣しようと考えていたというものです。
あくまでも計画上の話なんですが、そこら辺の話の信憑性なんかは今後調べる事とします。

先程の勝の「琉球を見に行くんだ」という発言に対して、斉彬公は「琉球には幕府に知られたくない事があるからそれは困る」というんです。
そして、斉彬公は密貿易(西欧諸国との)、軍備の事などを正直に打ち明けた事になっています。
まぁ、その時の琉球の具体的な状況が全く書かれていないので、何がどうまずいのかが良く分からないのですね。
そういう構想があっても、軍艦や見られては困る武器があるという訳でもなさそうですから、ちょっと謎です。

勝は即答はしませんでしたが、同乗の幕臣に悟られないように上手くごまかして琉球行きを中止します。
開明的な斉彬公の考えに同調したから、という事なんですが、バレたら勝の身が危うい事ですよね。

こういう記録が薩摩側にあるとは思えませんから、勝海舟の談話を編纂した「氷川清話」にでも書かれているのではないかと思うんですけどね。
これは読んだ事がないので何とも言えないのですが、ホラ半分みたいな評価をしている人もいますね。
今度読んでみようと思います。

こういう逸話っていうのは話の出所が分からないと何とも言えませんねぇ・・・的な話でした。

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[新編]氷川清話

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幕末きっての名君と名高い薩摩藩主、島津斉彬公。
幕末の人物の評価は、見る人によって様々なんですが、この人を悪く書く人はほとんどいない様に思います。

日本が本格的な混乱に突入する前に、斉彬公が死んでしまったという事もその一因ではあるでしょうが、視野の広さと先進性は藩主クラスでは他に並ぶ者がいなかったくらい飛び抜けていました。

斉彬公の紹介は後日専用のページで行うとして、今回は斉彬公と芋焼酎についてご紹介します。

薩摩は温暖な気候の為に日本酒の生産が困難でした。
その替りに米焼酎を飲むようになっていたのですが、斉彬公の幕末の改革の一環として、火縄銃ではなく衝撃で爆発する装置を用いた雷管銃(らいかんじゅう)の製造というのがあります。

この点火装置を作る為にエチルアルコールが必要だったのですが、当初はこの原料として米焼酎を利用していたんですね。
ところがこれは非常にコストが掛かり、大量生産が出来ないという事でコスト削減の為に芋焼酎を利用する事を命じます。
当時、芋焼酎も自家製で一部飲用される事もありましたが、においがきつかった為、一般的には出回っていませんでした。

斉彬公はこれを工業用に使用するだけでなく、飲料用としても利用できる様に製造法の改善を行います。
米焼酎と比べて値段も安かった為、庶民にも浸透し、皆大喜びだった事でしょう。

現在芋焼酎は鹿児島の名産品となっていますが、これも斉彬公の善政の名残なんですね。
鹿児島は見どころ盛りだくさんですよ。

観光スポット
尚古集成館

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島津斉彬のすべて

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遠いアメリカの地で起きた南北戦争と戊辰戦争は、一見何の関係も無かった様に思えるんですけど、実は大きな関わりがあったんで
すね。

南北戦争は1862年~1865年、戊辰戦争は1868年~1869年と時期は被っていません。

日本と最初に条約を結んだのはアメリカでしたが、南北戦争という未曽有の内戦の為、日本どころの話ではなくなりました。
しばらくの間、日本に対するアメリカの影響力が薄れ、イギリス・フランス両国の影響力が強まります。イギリスが討幕側、フランス
が幕府側に接近していく訳です。

アメリカはこの戦争で大量の最新兵器を開発したり、輸入したりしましたので、戦争が終結するとこれがだぶついてしまうんですね。

そこでこれをどんどん日本に輸出する訳です。アームストロング砲や、ガトリング砲などが有名ですね。

上野の彰義隊なんかは佐賀藩のアームストロング砲でさっくり粉砕されてしまった様ですし、逸話として佐賀藩は最新兵器を駆使して
たった5人で300人もの盛岡藩兵を打ち破ったというのがあります。

まぁ、ここまで来るとちょっとマユツバな感じもするんですが、もし事実だとしたら、これは戦争というより一方的な虐殺ですね。
仕方のないことなんでしょうけど。

戊辰戦争は一年強で終結しますが、この最新兵器の活躍があってこそだったと思います。

大きな目で見れば、多くの犠牲はあったものの、戦争の早期終結はその後の日本の躍進に向けてかなり重要だったといえるでしょう。

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戊辰戦争を歩く―幕末維新歴史探訪の旅

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「トコトンヤレ節」に登場する錦の御旗ですが、実はこれに関する興味深い裏話があるんです。

【戊辰所用錦旗及軍旗真図】国立公文書館

事の始まりというのは、岩倉具視(国学者の玉松操の提案があったと言われる)が大久保に制作を依頼したところだそうです。

この材料は、薩摩の大久保利通が愛人の「おゆう」に買いに行かせた物なんですが、「大和錦」と紅白の「緞子(どんす)」でこれを鳥羽・伏見の戦いが始まる三ヶ月くらい前に大久保が京都から長州に持ち込んで作らせました。

錦の御旗といえば、幕末以前の歴史上で何度か登場しているのですが、要はこれを使用する事によって味方の士気を高め逆に敵を萎えさせる効果が期待できるスペシャルアイテムみたいな物でしょうか。水戸黄門でいうところの葵の御紋ですね。

もちろん、この時代の志士はこれが過去に使用された歴史は知っていても、「錦の御旗」なんて実物は見たことがありません。
玉松操が書いた図案に基づいて作られたそうです。
誰も見た事のない伝説になりそうな(なってるかもしれない)
そんな物を持ち出すとこが良いですね。

岩倉や大久保なんかは、かなりの合理主義者だった様ですからこれを作って思いっきり皇室の威光を利用すべしと考えたんでしょう。

これを使われてしまった旧幕府軍の最高権力者である徳川慶喜も彼らに負けないくらい合理主義者であった様ですが、勤王で知られる
水戸藩出身でしたし、慶喜の天皇に対する忠誠心が非常に高いのは敵も味方も大いに知るところでした。

個人的には慶喜の勤王姿勢というのは、味方を欺くフェイクだと思うんですけどね。これについては後日詳しく説明しようと思います。

さて、実際の戦場でこの御旗が掲げられると、旧幕府軍はグダグダに浮足立ってしまい、御旗の登場を知った慶喜はさっさと江戸に帰ってしまいます。

これが岩倉や大久保の目論見どおりの効果を発揮したんですね。ちなみに、調子に乗って外国人相手に使っても効果は薄いので要注意ですな。

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戊辰戦争のドラマや映画で、新政府軍の士官が被っている赤や黒、白などの長い毛付いた帽子をご存知でしょうか?

この兜についている毛を被っていたのですが、これは唐牛、からうし(ヤク)の尻尾の毛です。

徳川家康の家臣だった本多忠勝が兜に乗せていたのですが、これがカッコ良く、強そうに見えたので、本多家の家臣が真似をして被る様になったそうです。

非常に高価な舶来品でしたので、大事に江戸城に保管してあったのですが、これを新政府軍が開城の時に戦利品として持ち出して被り出したんですね。

確かに強そうに見えますよね。暑そうですけど…。

ちなみに、黒いのは薩摩、白いのが長州、赤いのが土佐で、それ以外の藩は被らせて貰えなかったそうです。

まぁ、奪い取った物なんですけどねぇ。

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